教育

ひと目で分かる!稲作の起源と弥生時代【日本史シリーズ】

天津ユメト / Yumeto Amatsu

どうも、天津です。

前回は「旧石器時代から縄文時代」について解説しました。

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今回、日本史シリーズの第2回目は「弥生時代」について解説していきます。

それでは、スタートです!

弥生(やよい)時代とは?

従来、「稲作(いなさく)」は弥生時代から始まったと広く認識されていました。

しかし、新たな研究結果は、これが誤りであることを明らかにしています。

実は、縄文時代の終わり頃からすでに稲作が行われていたとの考えが浮上しています。

縄文時代の遺跡から水田跡や稲作の形跡が発見されたことによるものです。

弥生時代に突入すると、土器の形状も一新します。

縄文土器の多様な文様に対し、弥生土器(やよいどき)は薄くて丈夫で、すっきりとした形をしています。

この新たな土器は東京都の弥生町(やよいちょう)で初めて発見され、それにちなんで弥生時代、弥生土器と名付けられました。

稲作の技術の伝来

この時代、中国や朝鮮半島から多くの人々が日本に渡来しました。

彼らの中には稲作(米作り)の技術を持った人々も含まれていました。

稲作の導入は、人々が自然に頼るのではなく、自分たちで食料を生産する新しい生活スタイルをもたらしました。

食料の確保が自然任せだったところから、稲作によって毎年ある程度の収穫が計算でき、貯蔵(保存)できるところに、生活の大きな変化がありました。

静岡県の登呂遺跡(とろいせき)では、木ぐわや田下駄などの稲作具が発見されており、稲作がさらに発展したことを示しています。

また、この時代には金属器の技術も伝わりました。

最初に伝わったのは青銅器で、青銅を使って銅剣、銅鐸、銅矛などが作られました。

これらは非常に重くて武器などに使えなかったため、祭具や権力の象徴として使われていたのではないかと考えられています。

ほぼ同時期に、青銅器より軽くて実用的な鉄器も伝わってきました。

鉄の素材から武器や工具だけでなく、鍬(くわ)・鋤(すき)などの農具の刃先がつくられ、開墾ができるようになり、農業の生産力が向上しました。

環濠集落と社会構造の変化

稲作の導入と定住生活の開始により、人々の生活に大きな変化がもたらされました。

佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)で発見された環濠集落(かんごうしゅうらく)は、敵から村を守るために掘りや水堀り、柵などで周囲を囲んだ集落の跡を示しています。

稲作の発展により、保存可能な食物源である米が大量に生産されるようになった結果、人々は定住生活を始め、土地や収穫物をめぐる争いが発生しました。

この時代では日本列島の住民は「同じ民族」であると考えを共有していたため、争いが起きも相手を虐殺したり奴隷にしたりすることはありませんでした。

稲作で取れた米は保存ができるので、高床倉庫(たかゆかそうこ)などで保存していました。

これにより、社会には貧富の差が生じ、支配する者と支配される者の間に分かれていきました。

中国の史料が伝える弥生時代

弥生時代の日本人は文字を持っていなかったため、彼らの生活については直接的な記録が存在しません。

しかし、同時代の中国の史料から、弥生時代の日本の様子をある程度描き出すことができます。

「漢書」地理志

「漢書」地理志(かんじょちりし)によれば、当時の日本は100以上の小国に分かれており、これらの国々は定期的に中国に貢ぎ物を献上していました。

これは「朝貢(ちょうこう)」と呼ばれるシステムであり、中国をバックに威張ることができる「冊封体制(さくほうたいせい)」の一環ともいえます。

「後漢書」東夷伝

次に、「後漢書」東夷伝(ごかんじょとういでん)によれば、この時期の日本は「倭国」と呼ばれており、その国王が皇帝から金で作られた判子「金印」を授かったと記されています。

この金印には「漢委奴国王(かんのなのわのこくおう)」と刻まれていたと伝えられています。

魏志倭人伝

さらに、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)によると、邪馬台国(やまたいこく)には女王の卑弥呼(ひみこ)がいたとされています。

また、当時の日本では30数カ国が中国の魏に使者を送っていたと記録されています。

卑弥呼もまた魏に使いを送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」と刻まれた金印を授けられたとされ

邪馬台国の具体的な位置については未だに議論の余地があります。

「魏志」倭人伝に書かれている邪馬台国への行き方の案内が不十分であるため、その具体的な場所は九州であったのか、それとも近畿地方であったのかという疑問が残っています。

この問いについての決定的な答えはまだ見つかっていません。

まとめ

今回のブログでは、縄文時代の終わりから始まったとされる稲作の歴史について掘り下げてきました。

また、弥生時代に入ると、稲作が更に進化し、社会の構造や生活スタイルに大きな変化をもたらしたことを見てきました。

中国の史料を通じて、当時の日本の国々や指導者についても簡単に触れました。

弥生時代は、現代の日本文化や社会の原点ともいえる時代であり、その理解は我々が自身のルーツを理解する上で非常に重要な要素となります。

次回は、古墳時代を解説していきたいと思いますので、ぜひご期待ください。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

それでは、次回の記事でお会いしましょう。

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天津シンギ
天津シンギ
当ブログの管理人
複数のコンビニ業界に5年近く販売の仕事に携わる。また、小中学校で教員として十数年間勤務する。2023年より本格的にブログを開始。 休職・復職の経験や教員としてのキャリアを生かして、「自分を大切にする、上手な生き方」に関する情報を発信しています。現在はYouTubeやXも含めて拡大中。
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